注釈作成の基本方針と分析対象 #
項目の構造と注文数の概略を示し、一つの 項目を例に説明しながら、注釈作成の基本方針を示す。
項目の構造と注文数 #
項目は掲出字と注文からなる。
注文は、さらに音注、義注、 和訓、字体注、その他からなる。
項目の構造を図示すると次のようになる。 参考にそれぞれの項目数、注文数を記しておく。 注文の総数は約86,800である。
graph TB A(項目)--->B(掲出字)---I[約32,600項目] A-->C(注文) C-->D(字体注)---K[約13,400] C-->E(音注)---L[約24,100] C-->F(義注)---M[約12,600] C-->G(和訓)---N[約35,400] C-->H(その他)---O[約1,300]
本文読解 #
項目の例 #
「覲」を例にして項目の内容を見てみよう。
掲出字:覲
注文:音僅(R) ミル(LH) マミユ(HLH) 和後ン(_L)
注文の要素
音注:音僅(R)
和訓:ミル(LH)
和訓:マミユ(HLH)
音注:和後ン(_L)
この項目では、一つの掲出字「覲」に対して、音注が二つ、和訓が二つ記載されている。
以下、掲出字、音注、和訓の順に若干の解説を加える。
掲出字 #
掲出字は「覲」と翻刻したが、原文の字形をGlyphWikiで
再現すると、になっている。
「覲」のGlypWikiの情報はhttps://glyphwiki.org/wiki/u50c5に記載されている。そこには様々なグリフが登録されているので、 求めるものがあればそれを利用すればよい。なければ作字して登録することができる。
HDICのグリフは、hdic-で始まる。観智院本類聚名義抄は、さらにhkrm-を付し、所在情報を 8桁の数字で示している。
は
「覲」をHNG(漢字字体規範データベース)(https://search.hng-data.org/search)で検索してみると、漢書楊雄(上野本)に例があることが確かめられる。
掲出字に関する注釈の作成に際しては、必要に応じてGlyphWikiによる作字と表示、原本画像の切り出し画像の作成と表示で対応することとなる。
しかし、テキストベースの注釈作成では、読みにくくなるので、 IDSを使った方法が現実的であろう。
先のは
⿰⿳艹口土見
のように示す。
音注の検討 #
広韻 #
「覲」は『広韻』(以下、広韻と表記)の去声震韻に掲出され、義注と「見也」とし、 小韻「僅」に「渠遴切」と記される。
「覲」を例にすると、注釈としては次の二つの記載方法がある。
- 音注のみを示す場合:「覲」は広韻に「渠遴切」(去声震韻、僅)とあり。
- 音注義注を示す場合:「覲」は広韻に「見也」(去声震韻、僅:渠遴切)とあり。
正音 #
観智院本の最初の音注は、同音字注で「音僅(R)」と記される。 これは広韻去声震韻の小韻字「僅」に合致する。 Rは去声を示す符号であり、声調も一致している。
漢音は正音とも言うが、その声調は広韻に合致することが 多く、観智院本「覲」も広韻声調に合致している。
注釈に際しては、「覲」は広韻に「渠遴切」(去声震韻、僅)とあり、 のように音注のみを示せば十分であろう。
なお「音」字は、原文では略字の「亠」が用いられているが、通行の字体に 直して示す方針とする。
和音 #
もう一つの音注は「和後ン(_L)」とあり、和音が「後ン(_L)」であることを 示す。和音の「和」は、原文では略字「禾」が用いられているが、これもまた 通行の字体に直して示す方針とする。
「後ン」の「後」は濁音のゴを示すとされている。声点は「ン」に平声点の みを施す。「覲」は広韻で去声字であり、去声は上昇調とされる。 観智院本の「後」声調は不明だが、「ン」は平声であり、上昇調と見ることは 難しい。おそらく低平調であろう。 こうしたころから、正音と和音とで声調が異なっていることが分かる。
和音の典拠は、法華経や大般若経の読誦音を反映すると見られる。 SAT(大正新脩大蔵経データベース)で確認すると、「覲」は 法華経と大般若経の双方にそれぞれ複数回の使用がある。
原撰本『類聚名義抄』の図書寮本を見ると、 真興撰『大般若経音訓』と藤原公任撰『大般若経字抄』が引用されている。 『大般若経音訓』は逸書であるが、『大般若経字抄』は石山寺本 が現存しているので照合することができる。調べてみると、 「覲」は『大般若経字抄』に見えない。
注釈としては、漢字・仮名の字体、声点の 記載位置に疑問あればそれを記す必要がある。 朱墨の区別、虫損の状態は必要に応じて記載する。 さらに、 法華経と大般若経での出現の有無を記し、 石山寺本『大般若経字抄』か『大般若経音訓』逸文の内容を 記載し、考証を加える程度であろう。
和訓の検討 #
和訓は「ミル(LH)」と「マミユ(HLH)」の二つが記載される。
「覲」は説文解字・見部に「諸侯秋朝曰覲,勞王事。从見堇聲」 (諸侯、秋に朝するを覲と曰う、王事に労するなり、見に 従い、堇の聲)とあって、謁見する、引見する、の意味の「ミル」である。
周禮·春官・大宗伯に「春見曰朝、夏見曰宗、秋見曰覲、冬見曰遇、時見曰會、殷見曰同。」とあるのが参考になる。
注釈の作成 #
以上のような内容を注釈として記載して行くのが理想である。 しかし、約32,600項目と約86,800注文、合計約119,400の要素について 考証を加えるには多大の時間と労力を要する。
研究の蓄積が充実しているのは、第一に和訓、第二に音注である。 字体注と漢文義注に関する研究は少ない。 そこで和訓について、諸先学の研究成果を取り込むことを手始めに行うこととする。
和訓の注釈 #
声点が施された和訓は言及のある論考が多い。また、 文選訓のように、出典を特定できる和訓も少なくない。
次に掲げる著作は、和訓の語形の認定に関して、必ず参照すべきものである。 注釈作成に頻用するので、略称を用いて示す。
- 正宗索引 正宗敦夫編『類聚名義抄 第二巻 漢字索引仮名索引』風間書房、1955年
- 望月和訓集成 望月郁子編『類聚名義抄:四種声点付和訓集成』(笠間索引叢刊44)笠間書院、1974年
- 草川和訓集成 草川昇編『五本対照類聚名義抄和訓集成』汲古書院、2000年
- 中村文選 中村宗彦『九条本文選古訓集』風間書房、1983年
- 訓點語彙集成 築島裕編『訓点語彙集成』全8巻・別巻1、汲古書院、2007~2009年
この他の著作・論文にも参考となる記述が多い。たとえば、次の文献であり、順次、参照する。
- 色葉略注 佐藤喜代治『色葉字類抄略注』(上・中・下)明治書院、1995
- 訓点語辞典 吉田金彦・築島裕・石塚晴通・月本雅幸『訓点語辞典』東京堂出版、2001
同訓の漢字が多い場合は、主要なものに限り、記載した。
国語辞典と漢和辞典の大型辞典としては、次が代表的なものである。最新版のみ挙げる。
- 日国 日本国語大辞典第二版編集委員会・小学館国語辞典編集部編『日本国語大辞典』小学館、2000~2002年
2006年11月、ジャパンナレッジのコンテンツとして提供開始。 - 大漢和 諸橋轍次著、鎌田正・米山寅太郎編『大漢和辞典 修訂第二版』(全12巻、語彙索引、補巻)、大修館書店、1990~2000年
2021年4月からジャパンナレッジに追加コンテンツとして収録。
漢語工具書としては、次が便利である。
- 故訓匯纂 宗福邦・陳世鐃・蕭海波主編『故訓匯纂』商務印書館、2003年
私の手元にあるのは、2007年に出た二巻本である。 先秦から晩清までの250部の文献に見える訓詁資料の集成。 それまでは清の阮元編『經籍纂詁』が訓詁を集めた 韻引きの工具書。『故訓匯纂』は部首画数順であり、収録書も大幅に増えている。
音注の注釈 #
音注については、広韻と照合することが第一に必要である。それを土台として 声点、仮名音注、和音注、呉音注を分析することとする。広韻に見えない掲出字も 多いので、『篆隷万象名義』、原本『玉篇』残巻、宋本『玉篇』、『龍龕手鑑』、『一切経音義』 などでの記述を参照する必要がある。
これらの影印本や索引は各種のものがある。また、現在では、オンラインで検索できる字書・韻書も多い。
私の手元にあり、これまで利用してきたものを中心にあげれば次のとおりである。 オンライン版も参考に記す。
切韻・広韻・集韻
- 陳彭年撰『校正宋本廣韻 附索引』藝文印書館、1967年
澤存堂本の影印に漢字索引(部首画数順)を附す。 - 劉復編『十韵彙編』学生書局、1975年
広韻を下段に対応する切韻残巻を上段に示す。 - 丁度等編『集韻:附索引』上海古籍出版社、1985年
上海図書館蔵述古堂影宋鈔本の影印を収録。四角号碼索引を附載。 - 鈴木慎吾「篇韻データベース(PYDB)」
切韻・廣韻・中古音のセクションに「Web韻圖~廣韻檢索~」「『切韻』諸本輯覽」「『切韻』佚文檢索」を収録。 - 上田正『切韻逸文の研究』汲古書院、1984年
- 中國哲學書電子化計劃(Chinese Text Project)
字典(Dictionary)の検索で説文解字、宋本広韻、康煕字典などの情報が表示される。書名檢索(Title search)で「集韻」を検索すれば各種の全文テキストを閲覧できる(但し、「未經校對」)。
玉篇
- 顧野王撰『原本玉篇殘卷』(古代字書輯刊)中華書局、2004年
- 臧克和『中古漢字流變』華東師範大學出版社、2008年
『説文解字』、原本『玉篇』残巻、宋本『玉篇』、『篆隷万象名義』を対照し注釈を施す。 - 呂浩『《玉篇》文獻考述』上海人民出版社、2018年
玉篇に関する論考に加えて附録として「原本《玉篇》殘卷校點本」「《玉篇》逸文輯録」を収める。 - 顧野王撰・姚永銘校證『《原本玉篇殘卷》校證』浙江古籍出版社、2023年
原本『玉篇』に関する残存文献を博捜し、比較校勘を行って、詳細な注釈を施す。 - 顧野王撰『大廣益會玉篇』(古代字書輯刊)中華書局、1987年
澤存堂本の影印に四角号碼索引を附載。 - 顧野王撰述・呂浩校點『大廣益會玉篇』(中國古代語言學基本典籍叢書)中華書局、2019年(上中下三冊) 宮内庁書陵部蔵宋本を底本として、宋11行本(中国国家図書館蔵宋本)、清楝亭本(南京図書館蔵稱揚州詩局本)等と対校。
- 平安時代漢字字書総合データベース(HDIC)「宋本玉篇」(SYP)
宮内庁書陵部蔵宋本を底本として入力したもの。鈴木慎吾「篇韻データベース」の宋本玉篇検索で検索可能。
篆隷万象名義
『篆隷万象名義』は原本『玉篇』の節略本であるので、原本『玉篇』の代用として用いることができる。
- 高野山大学・高野山大学密教文化研究所編『篆隷萬象名義』密教文化研究所、1966年
- 空海・山田孝雄『篆隷萬象名義』(崇文叢書 第1輯之27–43)崇文院、1926年
- 高山寺典籍文書綜合調査団編『高山寺古辭書資料第一』(高山寺資料叢書 第6冊)東京大學出版會、1977年
- 吕浩『篆隷萬象名義校釋』學林出版社、2007年
- 平安時代漢字字書総合データベース(HDIC)「篆隷万象名義」(KTB)
龍龕手鑑
- 釋行均編『龍龕手鏡』中華書局、1985年
高麗本巻1、巻3、巻4の影印を収録し、それに欠く巻2全巻と、巻1末1頁、巻3目次及び見部1頁を宋本により補う。 - 藤本幸夫・鄭光『龍龕手鏡(鑑)研究』麗澤大学出版会・廣池学園事業部、2015年 論文3篇と影印から構成。影印は中華書局と同様の構成。
- 釋行均撰・京城帝國大學法文學部編『龍龕手鏡』東京:七条憲三、1928–1929年(1冊・第2冊・解説)
上記2書の影印はいずれもこの書による。入手難。
一切経音義
玄応の一切経音義は、伝存する古写本、古版本が多い。 さらに慧琳の一切経音義にも玄応の一切経音義をそのまま収録した部分もある。
- 弘教書院編『大日本校訂大藏經音義部爲六』弘教書院、1885年
高麗本を収録。活字本。 - 山田孝雄『一切經音義索引』西東書房、1925年
玄応と慧琳の一切経音義の索引。山田孝雄「一切経音義刊行の顛末」を収録。 - 玄應・山田孝雄『一切經音義』西東書房、1932年
法隆寺一切経大治三年書写本(大治本と略)の影印。現在、宮内庁書陵部蔵。巻1・2と巻9~25の5帖19巻を残す。それに欠く部分を高麗本により補う。 - 玄應・周法高『玄應一切經音義』(中央研究院歴史語言研究所專刊47.玄應一切經音義反切考・附冊)中央研究院歴史語言研究所、1962年
弘教書院本を収録。 - 李瑄根校訂『一切經音義:外十二部』高麗大藏經第三十二、ソウル:東國大學校、1975年
玄応の一切経音義を収録。 - 慧琳・李瑄根校訂『慧琳經音義』高麗大藏經第四十二・四十三、ソウル:東國大學校、1976年
慧琳の一切経音義を収録。 - 玄應・小林芳規『一切經音義』(古辞書音義集成 第7–9巻)汲古書院、1980年
大治本に加えて、石山寺一切経本の広島大学本(巻2~5)と天理図書館本(巻9)、および天理図書館本の巻18(鎌倉後期書写本)を収録。このほか、巻3~8を高麗本により補う。 - 沼本克明・池田証壽・原卓志編『一切經音義索引』(古辞書音義集成 第19巻)汲古書院、1984年
古辞書音義集成本を底本とする掲出字索引、音注索引、出典索引。 - 国際仏教学大学院大学学術フロンティア実行委員会編『玄應撰一切經音義二十五卷』(日本古寫經善本叢刊 第1輯)国際仏教学大学院大学学術フロンティア実行委員会、2006年
金剛寺本21巻分、七寺本20巻分、東京大学史料編纂所本(七寺一切経)巻15、京都大学文学部本(石山寺一切経)巻6・巻7、西方寺本9巻分の計53巻分の影印を収録。 - 徐時儀校注『一切經音義三種校本合刊』上海古籍出版社、2008年
玄応、慧琳、希麟の音義の校注本。2012年修訂版。
最近では歴代の字音データを網羅した次の書が出版された。
古音匯纂
- 宗福邦・ 陳世鐃・于亭主编『古音匯纂』北京:商務印書館、2019年
先秦から清末までの上古、中古、近代の字音データを網羅。主要引用書目127種。『故訓匯纂』の姉妹編。